Masuk――その夜。
自室で、答えの出ない問いに苛まれ、途方に暮れているわたくし。「うう、ひっく。わけが、わかりませんわ……」
|繻子《サテン》の枕に顔を埋め、声を押し殺し泣く。こんな惨めな姿、誰にも見られたくはない。
「お嬢様、いつまでメソメソとなさっておいでで?」
けれど、この屋敷には、わたくしの都合などお構いなしの使用人がいる。
音もなく入室してきた、専属執事イヅル。同情も慰めもない、さらさらとした砂の声で尋ねて来た。「か、勝手に部屋に入って来るなんて、どういうつもりなのよ!」
「あまりお心が休まっておられないようでしたので。安眠を誘うハーブティーを、お持ちしたまででございます。ほれ、この通り」差し出す銀盆には、わたくしが好きなカモミールティーの優しい湯気が薫る。湯気が薫る。でも、苛立ちは止まない。
「あなたには、わからないでしょうねっ!」
思わず、枕を投げつける。もちろん、イヅルは柳に風と、身体を少し傾けるだけで涼やかにかわしてみせたけれど。
「このっ! わたくしの気持ちなんて、あなたなんかに、わかりっこないんですからっ!」
「そうですか。では、このカモミールティーはご不要で?」 「それはっ! ……いるけどっ!」ぬいぐるみとかを手当たり次第、投げつけてみたけど疲れるだけだった。肩で息をする間に、セッティングを整えるイヅル。
「もうっ! 本当にあなたって勝手なんだから! 頼んでもいないことばかりして!」
「主人に命じられてから動くようでは、二流でございます。それよりも、お嬢様。泣いても、状況は何も改善されませんよ。涙の無駄遣いでは?」 「そんなこと、わかってるわよ!」 「でしたら、何故お泣きに?」 「それはっ! だってっ! 婚約が決まったのに、誰も祝福してくれないし! 婚約者は冷たいし、アカデミーは居心地悪いし、ツェツィーリア様は嫌味を言ってくるしっ!」その上、ルチア嬢の方が、バージル殿下とずっと親しげだった。
もう、まるで世界中から「お前は邪魔者だ」と、指を差されている気分なのよ!「なるほど。つまり――お嬢様はなぜそのような状況に陥っているのか、まるでご理解されていない、と」
「なっ!?」イヅルは、にっこりと微笑んだ。面白い玩具を見つけたみたいに。
カッチーン! どうしてこうもまあ、うちの執事は頭にくる言い方をするのかしら!「失礼な! わ、わかっておりますわよ、それくらいっ!」
「おや、左様でございますか?」単なる強がり。でも、彼の黒曜石の瞳は、すべてをお見通し。
耐えきれなくて、ぷいっと顔を背ける。悔しさに唇がわなわなと震えた。「ほら、でも……わたくしは寛大ですから? ほら、あなたの口から答え合わせしてもよくってよ?」
「はて、何と恐れ多い。この執事めが、主人に偉そうに講釈を垂れるなど、打ち首ものでございます」 「くっ!? それでも、と・く・べ・つ・に! 許して差し上げますわっ!」 「おやおや……お嬢様は、何と愛らしいことをおっしゃる」からかう響き。
すると、イヅルは待ってましたとばかりに、眼鏡のズレを直す。「では、僭越ながら。わたくしめからご説明いたしましょう」
ビターすぎるチョコレートを溶かしたみたいな。そんな残酷な真実を、イヅルは喜々として語る。
「王は、強大になりすぎたシューベルト侯爵家の力を削ぎたいのでございます。しかし、潰すまではしたくない。当主である宰相閣下は有能な人材であり、彼の派閥は国家の重要な収入源を担っておりますから」
「へ、へえ? ……それで?」 「かといって、王家は、自らの手を汚すわけにはいきません。何の罪もない家を罰するような前例を作れば、他の貴族たちの信頼を失いますからね」 「それはそうよね。だって、次は自分たちかもしれないって思っちゃうもの」 「その通り。でしたら、どうするか。別の有力な派閥をぶつけ、対立を煽り、その権力の合流を防ぐ。その上で、生かさず殺さず、双方を疲弊させるのが最も効率的、かと」まあ、これは一介の執事の邪推にございますが。
そう嘯きながら、専属執事イヅルは転がる枕やら、ぬいぐるいみやらを片付け始めた。 ……え、それってつまり?「シューベルト侯爵家と、わたくしたちシャーデフロイ家を争わせようとしてるってこと!?」
「ご明察。婚約については、確かにツェツィーリア様が最有力候補だったとか。そこに我が家が割り込んだのは、これまでの貢献への報い――という表向きの理由がございます、が」 「……が?」 「ご存知の通り、シャーデフロイ家は、様々な家門の不祥事や醜聞を力としてきました。つまり、水面下での敵も多い。我らが孤立しうることも、王はよくご存知なのです」わたくしが今、アカデミーで味わっている、この孤独。それすらも、王の計算の内だというの?
仲良くしてた家も、みんな風見鶏みたいに、大勢が決まるまで見てるだけ?「でも、そんなの! 悪いことした人たちが悪いんじゃないのっ!」
「それはその通りですが。王家にとって、宰相という大狼を弱らせるための先兵として、我がシャーデフロイ家は、まさにうってつけの『弾丸』だったのでしょう」つまり、この婚約は栄誉ある縁談などではなく。政争の最前線で戦えと命じる、決して逃れられぬ策略?
「やっとお気づきになりましたか。……金の首輪というやつですよ」
世界から、音が消えた。
イヅルは低く甘ったるい声に、微塵の同情も乗せずに続ける。「つまり、お嬢様は“生贄”でございます。このまま黙っていれば、王家の駒として使い潰され、用が済めば捨てられるだけの、哀れな子羊……ですね」
ひび割れた心に、追い打ちをかけてくる。
「パパがそんなこと許すはずないわ、ママだって怒るもの!」
「されど、王家に弓引くことが堂々と許されるはずもなく。あくまで、名誉な褒賞に類するものでございますから、正当な理由なく断ることも難しく」 「う、うう……」その夜、わたくしは思い切り泣いた。
父を恨み、王家を呪い、なにも出来ない自分の無力さを嘆いた。東の空が白み始め、窓が薔薇色に染まる頃。
泣き腫らした赤い目で、わたくしは鏡台の前に座る。そこに映ったのは、ひどい顔の、哀れで、惨めで、無力な少女。 でも、もうこんな顔を見るのはたくさん!「――冗談じゃないわ」
ぽつりと、掠れ声が唇から漏れた。
「誰が、使い捨ての人形になんてなってあげるものですか」
唇を強く噛みしめる。滲んだ鉄の味が、現実の苦さを教えてくれた。涙は、もう枯れ果てた。
「子羊? いいえ、違うわ。わたくしは、シャーデフロイの翼ある蛇。食われるくらいなら、その喉笛に牙を剥いてやる!」
決意は、怒りとなって腹の底から湧き上がる。
そうだ。わたくしには、守るべき家がある。愛する領地の民がいる。そして何より、このベアトリーチェ・ファン・シャーデフロイとしての、誇りがある。「わかったわ。こうなったら、なってやろうじゃないの。金の首輪じゃ制御できないような、誰もが手を焼く、最悪で、最低の悪役の令嬢に!」
王家が、わたくしたちに悪役を望むのならば。ええ、やってやりますとも!
わたくしは、背後の気配に向かって、力強く命じた。「イヅル! この国にある歴史上の悪女、毒婦に関する書物を、片っぱしから集めてきなさい! 今すぐに!」
いつのまにかそこにいた忠実なる影は、ゆったりと一礼。口元に、深い愉悦を浮かべていた。
「――喜んで。我が|主演女優《プリマドンナ》」
この日、無垢なだけの令嬢は死んだ。
そして、一人の悪役が、血の味と共に、舞台に産声を上げる。のちに、王立アカデミー史上最悪の悪役令嬢として語り継がれる少女。
ベアトリーチェ・ファン・シャーデフロイが、いびつで健気で、ポンコツ滑稽な戦いの第一歩を踏み出した、記念すべき瞬間であった。……え、ちょっと待って。ポンコツ滑稽なの? わたくし。
「……ふう」 シートに身を沈める。どっと、ローラントを疲労感が襲った。 御者が鞭を振るう音。再び馬車に乗り込めば、ジャンジャックが気だるげにページをめくっていた。 遠ざかる、王都。 遠ざかる、かつての栄光と罪の場所。「……終わったか」「ええ。……心残りがないとは言いませんが」「まあ、そうだろうな。心残りは、たくさんあるに越したことはない」「……そうでしょうか?」「若いうちから、心残りを消すことをするな。まだ早い」「先ほどからなんですか! 俺とジャンジャック殿、そこまで年齢が違うとは思いませんが!?」 なぜ、さほど歳の変わらない相手に、若造扱いされているのか、ローラントは不思議で仕方がなかった。 年上風を吹かせてくる男というのは、騎士には珍しくもないが、ジャンジャックの態度は妙に鼻につく。「気を遣ったつもりなのだがな。小生が知らせていなければ、見送りもいないぞ?」「それはっ! 確かに。……ありがとうございます」「素直でよろしい。先ほどより、顔つきがマシになったじゃないか」 ローラントに、勝ち目はないらしかった。どうにも分が悪い。「そう、ですね。なんというか……不思議なことに、失ったはずなのに、心が軽いです」「そうだな。ある種の人間は、心を軽くしてくれるものだ」「ある種の、人間?」「小生にとっての、ルチア。お前にとっての、ベアトリーチェ」 それは、ローラントにも否定する余地がなかった。「仮になにもかもが演技であり、勘違いや錯覚だったのだとしても……そこに抱いた感情には、偽物も本物もない」 ジャンジャックは、ページをめくる。「狂人を演じ続けられる者は、最早それは狂人であるように。同時に、お前の前で、英雄を演じきってくれるならば――その者は、お前にと
「……はぁ。結局、振り出しに戻ってしまいましたわ」 帰りの馬車の中。 わたくしは、がっくりと項垂れていた。こんなにお天気なのに、乙女心は土砂降り雨模様よ。 すると、向かいに座るイヅルが、優雅に脚を組み替えながら、涼しい顔で水を差す。「まあ。この状況での婚約解消など、殿下にとっては想定外もいいところでありましょう」「なんでよ!」 思わず、手近なクッションをぎゅっと抱きしめて抗議する。「夜会で、あんなに派手に暴れましたのよ? 複数人の殿方を侍らせて、前代未聞のスキャンダルを起こしたではありませんのよ! 普通なら、愛想を尽かされて当然ですのに……」「ええ、確かに。普通ならばそうでしょうね」「どうして、バージル殿下の頑固さが、あんな斜め上の方向に進化してしまっているのかしら? ハッ、まさか……王族って、特殊な性癖とかおありになるの???」「お嬢様。その邪推は、あまりに不名誉すぎて、不敬罪でございますよ」 そんなツッコミは一旦、無視よ。不敬罪くらいで、今さら怖がってなんかいられないわ。「はて、そこまで大暴れされても、婚約解消はしたくない。そんな男心が、ビーチェお嬢様に伝わらないのはなぜなのでしょう。……あまりに眼中になさ過ぎる?」 続く、イヅルのぼやきも、あとまわし。 わたくしは頬杖をつき、馬車の窓ガラスに映る自分の顔を睨みつけた。でも、しょぼくれてはいられないわよね。「やはり、初心に帰るべきなのよ」「初心、でございますか?」「ええ。奇策に頼らず、コツコツと積み上げるの。手始めに、中断していた『恋愛スキャンダル計画』を、継続するしかありませんわ!」 わたくしは、拳を握りしめて宣言した。 そう、こうなったら長期戦の構えっ! 悪役令嬢延長戦に突入よ!「やっぱり、ヒュプシュ卿にお願いしようかしら。あの方なら、ノリノリで協力してくれそうですもの! もう、『恋人のフリ』のプロフェッショナル
――数日後のこと。 わたくしは、バージル殿下に呼び出され、王宮の庭園を歩いていた。あら、すっかり修復されたのね。 午後の柔らかな日差しが、手入れの行き届いた白薔薇の生垣に降り注ぎ、甘やかな香りが風に乗って漂う。 砂利を踏む、ザッ、ザッという足音が心地よい。「……此度の件、改めて礼を言う」 足を止めた殿下は、わたくしに向き直ると、黄金の頭を下げた。 公式記録に、記されてならない。王族が頭を下げる行為。飾らない礼。「そなたがいなければ……私は、友を失い、国を失っていたかもしれない」「頭をお上げください、殿下。わたくしは、自分のしたいことをしただけですわ」「その上、ローラントへの見送りまでも、果たしてくれたな。私の分までも」「……きっと、ローラント殿には届いていますわよ。殿下のお気持ちは」 イヅルへの侮辱は、まだ許せないけれど。 でも、あの夜、傷つきながらも、まっすぐにローラント殿にぶつかっていったお姿。 悔しいけれど……正直、感動したの。(だからこそ、わたくしは……腹を割って話そうと思いますの) パチン。扇を閉じ、わたくしは殿下の瞳を見つめ返した。「わたくし、今回のことで殿下を見直しましたわ」「……そうか? ……そうかっ!!」「だから、殿下。もし、やり直せるなら……また一から、始めたいと思っております」 わたくしは、正直な気持ちを伝える。「――わたくしたち、やり直しませんこと?」 すると、バージル殿下は、パァァァッ!と、見たこともないような明るい表情になった。 年相応の少年のお顔で、無防備に手を取り、強く握りしめてくる。「ベアトリーチェっ! やはり、そなたもそう思ってくれていたか! 私も同じ気持ちだっ!」「まあっ
王都を出る城門で、馬車が止まる。「……フム。どうやら、お見送りのようだぞ」 ジャンジャックの視線先。城門の脇、二つの人影。 燃えるような赤髪の令嬢と、影のように付き従う黒衣の執事。 ローラントは馬車を降り、不自由な身体で深く頭を下げた。「ベアトリーチェ様、なんと言えばよいのか。……その、わざわざ、お見送りに?」「ごきげんよう、ローラント殿。もちろんよ。お加減はいかがかしら?」 ベアトリーチェは、ローラントの包帯だらけの姿を見て、一瞬痛ましげに瞳を揺らした。 が、すぐに、いつもの勝気な笑顔を作っては、扇を広げる。「おかげさまで。命だけは、拾いました」「そう? まだ、もっと色々残っていると思うけれど」 言われても、ローラントにはこの身に何が残っているか、思いつかない。 言葉に困り、助けを求めようにも、隣に立つイヅル・キクチは、相変わらず何を考えているか読めない。涼やかな微笑。「本当は、バージル殿下も来たがっていたけれど、お立場が許さないって。それに、他にも来たがっていた人はいたのだけれど……大々的には出来ないから。だから、わたくしだけで来たわ」「そう、でしたか」「寂しい見送りでごめんなさいね。でも、殿下ったら、歯を食いしばって、目も真っ赤。泣く寸前になっていましたわよ?」「……あまり、民衆に見せてはいけなさそうな姿ですね」「でしょう? だから、かえって良かったかもしれないわ」 ローラントは、想像して目を伏せる。(もし、会えていたら。……俺は、ここから離れがたくなってしまっただろうな) すると、「あっ!」とベアトリーチェが声を上げた。「それより約束、でしたわよね。これ、受け取ってくださる?」 差し出されたのは、一枚のハンカチ。 上質な絹の布地。その隅に繊細ながらも、力強い糸運びで、刺繍が施されている。
窓の外から、カーン、カーンと、槌音が響いていた。 崩れた石材は運ばれ、新しい足場が組まれていく。 『ハンノキ事変』で傷ついた王宮の修復工事が、急ピッチで進められているのだ。日常が戻りつつあることの証左。 ローラント・ファン・ボイズは、そんな光景を眺めていた。(どうにも、己だけが世の流れから、取り残されている気がする) 視界には、包帯が巻かれた右手。分厚く巻かれた包帯の下には、異界の茨がもたらした痕が刻まれている。 指先を動かそうと念じるが、上手く力が入らない。分厚い綿が、感覚を遮っているようだった。「……悲劇の騎士、か」 サイドテーブルに置かれた新聞に、踊る大見出し。『魔王の洗脳に抗い、自らを犠牲にして戦った悲劇の騎士』『王太子を守り抜いた忠臣、名誉の負傷』 見舞いに来る者たちは口々に言う。「立派だった」「貴殿の忠義は、王国の誇り」だなどと。 そんな言葉を聞くたびに、ローラントはこう叫びたくなる。「違う。俺は抗ったのではない。自らの意志で、友を、主君を裏切ったのだ」 だが、真実を誰かに語ることは許されなかった。 王家からの沙汰は、簡潔。即ち――沈黙せよ、だ。 魔王の介入は、内部勢力とは何ら関係のない事象でなければならなかった。カゼッラ第二王子の件も、なにもかもが国家機密として葬られる。 あらゆる派閥が手を取り合って、魔王の目論見を挫き、次代を担う若者たちが活躍した。 それ以外の物語は、この国に不要なのだ。 「バージル殿下は……最後まで、反対しておられたようだが」 思わず、苦笑する。バージル殿下らしいことだった。 結局、折れてしまわれたようだが。「だが、きっと。ご自身ではなく、誰かのために嘘を選ばれたのだろうな」 そう、例えば、この|裏切り者《ローラント》のため、だとか。 ローラントは、身に起きている温情が、きっと幾人もの想いによってもたらされているのだろう、と感
かくして。 後の世に『ハンノキ事変』、あるいは『真夏の夜の悪夢』と呼ばれることになる一連の騒動は、こうして幕を閉じたわ。 王宮からの公式見解はこうよ。『異界より来たりし、魔王によるシュタウフェン王国への攻撃であった』 そこに、大国ガリアの思惑? とか、宰相派だとかシャーデフロイ派の対立とか、よくわからない陰謀はなかったという話になったの。 だから、操られた人はお咎めなし! そんな魔王による攻撃を、派閥を越えて手を取り合った若き令嬢令息……特に、『薔薇の乙女団』の活躍は目覚ましく、賞賛に値する勇ましき令嬢たち~なんて、華やかに語られたわね。「わたくしが贈った薔薇のブーケが、こんなことになるなんて。でも、男子生徒たちもボロボロになるくらい頑張ったのにね?」 それから、うちのシャーデフロイ家の精鋭。王太子バージル殿下が、護衛騎士団を率いて奮闘し、無事解決した。と。「もうっ、美味しいところはちゃっかり持ってこうとするんだから」 もちろん、被害は、甚大だったわ。王宮もあちこちボロボロ。貴族にもけが人は出たし、心の傷が大きかった人もいる。 ああ、そうね。洗脳されていた令息たちは、正気に戻った後、自らの行いに強いショックを受け、しばらくは療養が必要だとか。 けれど、驚くべきことに。 ――死者は、奇跡的にゼロだった。「嘘みたいね! あんな大乱闘だったのに!」 わたくしが、驚きの声を上げると、傍らに控えるイヅルは、涼しい顔で紅茶を淹れながら答える。「ええ。なんと、あの鉄拳カール殿も、重体でしたが一命を取り留めたそうで」「まあ、それは良かったわ! ……でも、背中から一突きまでされたのに?」「刺された剣は、内臓や重要な血管を避けていたようですよ」「……人間離れしすぎじゃない? ローラント殿の剣技」「『あの野郎、手加減しやがって!』などと、ベッドの上で悪態をつくくらいには、回復されているそうですから。我が家の秘伝ポー
「でね、ベアトリーチェ様ー! 聞いてくださいよー! 今日の歴史学の講義でですね、先生が!」 それから、何日経っても……変わらない。 すっかり友達だと言う顔をして。今日も、わたくしの隣に座ると、楽しそうにおしゃべりを始めるルチア。「へえ、それで?」「それでですね! ツェツィちゃんが、うとうと……なんと居眠りしてて! 先生にはバレなかったけど、指摘したらすっごく可愛い顔で、むくれてたんですよ!」 口から語られるのは、宰相令嬢ツェツィーリア様の、可愛らしい日常。本当に
振るう剣が、鉛のように重たいのは――情が絡みついているからだ。 深い、深い。泥沼に浸かるような夢。 ああ、ひどく懐かしい。あそこは、いつも冷たい隙間風が入って来るんだ。 ボイズ家の屋敷。 ガリアからの亡命者ゆえに、後ろ指を指される一族。いつも不平不満に満ち溢れていた、我が生家。 俺は、あの頃、単なる弱虫の少年だった。 皆の鬱屈した苛立ちは、いつも一番弱い俺に向けられる。「貴様のような腑抜けは、ボイズ家の恥だ!」 父の吐き捨てる声。異母兄たちの嘲笑。拳が、鞭が容赦なく振るわれる。 幼い俺は、うずくまり、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。「ローラント! ああ、なんて
「だが……ハンノキの王から、受けた恩義が……俺には」「忌々しいが……魔王は確かに、そなたが人生で最も苦しい時、一縷の救いとなったのだろう。だがな、ローラント。そなたがいなくては、こんな私は王子として格好がつかぬではないか」「……殿下」「だから、そなたが美しいと感じた人々が生きる、この傷だらけの世界で。この頑固者の弱さを……どうか、背負ってくれまいか。そう、友として」 バージル殿下は、手を差し伸べる。
「違うっ! 確かに、私の……“俺”の弱さのせいで、母さんは死んだ! 二度とはもう戻らない。だがっ!」「だが? ほほう、ハンノキの王の世界に連れ去れば、愛する者は傷つかずに済むとでも?」「そうだ! この世は、争いとエゴに満ちている。肉体がある限り、苦しみはなくならない! どんなに、心が美しくとも、いずれは傷ついて――」「待つがよいっ!」 すかさず、横合いからバージル殿下が隙をつき、一太刀! 切り払ったのは、ローラント殿の半身を覆い尽くさんとする、黒い茨。「私は







